窓の外。
 エレイニオンは、静かな海を見つめる。
 今は、静かだ。
 ほんの一時前まで、
 あんなに荒れ狂っていたのに。
 激しく打ちつける荒波は心を乱しはしないのに、
 静かな細波は、
 心を騒がせ、
 何だろう………
 深い深い海の底に
 沈み込んでいく。



 フィンゴン王が、戦死なされた。
 斥候が、急な知らせを持ってきた。
「全滅………?」
 キアダンが、あのキアダンが、血の気を失わせ、言葉を振るわせた。
「トゥアゴン殿はご無事です…それから………」
 斥候の報告が続く。
「確かではないのですが」
 マエズロスらも生きているという。
 傍らで報告を聞いていたエレイニオンは、足首を何かに掴まれ、ずぶずぶと水底に引きずり込まれていくのを感じた。
酷く耳鳴りがして、言葉が聞き取れない。
 無意識に、部屋の片隅に走り、己の愛槍を握り締めると、外に駆け出そうする。
「エレイニオン殿!!」
 誰かが叫ぶ。聞こえない。何も、聞こえない。
 フィンゴン王は、
 父は
 死んだのだ。
 王の身体は散り散りに引き裂かれ、王旗は汚された。
「エレイニオン殿!!」
 掴まれた腕を振り解こうとするが、それはあまりに力強く、エレイニオンは悲鳴を上げた。
「落ち着きなさい!! エレイニオン殿、私の目を見なさい!!」
 ぐいと引き寄せられ、顎を掴まれて顔を寄せる。
 その灰色の瞳を覗き込む。
 大海原のように時として色を変える瞳。
「王の………敵を討たなければ!」
 それでもそこから逃れようと、エレイニオンは言葉を搾り出す。
「フィンゴン王が敵わなかった敵が、お前さんの相手になどなるか!!」
「たとえ敵わぬ相手でも、王の敵を許してはおけぬ!!」
 !!
 次の瞬間、地面に倒れている事に気付く。手を離したキアダンに殴られたのだ。
「………キ」
「お前さんの今すべき事は、王の敵を討ちに無駄死にすることではない!!」
 生暖かい鉄の味を感じ、唇に触れると、そこが切れて鮮血があふれ出していた。 
「キアダン殿…」
 周囲の者たちがうろたえる。
「かの者はすぐにここに目をつけるだろう。皆の者、戦いの準備をせい!! 城壁を固めろ!! 武器を取れ!!」
 周囲の者たちが、短い返事のあと、それぞれに散っていく。
 地面に倒れたまま、ぎりぎりと歯軋りをするエレイニオンに、キアダンはその腕を取って立ち上がらせると、
そのまま包み込むように抱きしめた。
「………エレイニオン…わしと一緒に来い。わしがお前の父となろう」
 身体の力が抜け、指先から槍が滑り落ちる。
武器と興奮の抜け落ちた指で、エレイニオンはキアダンの海の匂いのする服を強く握った。
 


 キアダンの言うとおり、戦いの嵐はすぐにやってきた。
 翌年、ブリソンバールとエグラレストの港は陥落し、キアダンは生き残った民を連れてバラール島まで撤退した。
 モルゴスの軍は、バラールまで追っては来なかった。

 エレイニオンは、ほんのつかの間の休息を得た。

 バラールには急ごしらえの家々が作られ、戦を逃れてきた者たちの避難所となった。
 新たな造船所、シリオンからの船を迎え入れる港。
 街の中心から少し離れた、入り江になっている静かな海岸に、簡素な家を立て、
キアダンはエレイニオンとそこに居を構えた。
 とはいえ、領主であるキアダンはほとんどの時間を港と造船所で過ごしている。
 本当なら、手伝わなければならないだろう、と、エレイニオンにはわかっていた。
キアダンの民は半分に減ってしまった。傷ついているのは、自分だけではない。
 キアダンのところに行き、港で民を助けなければ。
 王族として大工仕事の一つもできない自分だが、何かできることはあるはずだ。
 そう思えば思うほど、

(心が萎縮する)

 手足が動かなくなり、思考が働かなくなり、
 食べる事も眠る事もままならない。
 そんな自分がふがいなくて、また己を責め、深みにはまっていく。

 キアダンは、何も言わず、エレイニオンを静かに見守っていた。
 キアダン自身は忙しく働いていたが、他の者たちをエレイニオンから遠ざけてくれ、
窓辺で海を眺めるエレイニオンを、ただそっとしておいてくれた。

 エレイニオン、王家の継嗣
 自分は、ここでいったい、何をしているのだろう…。
 


 その日、港がいつもよりいっそう騒がしかった。
 シリオンの船は普段隠されているもので、それほどの大きさはない。
その船の中で、一番大きなものが賓客を連れて来た。
 白い立派な馬と、黄金に輝く騎士。
 キアダンはその者に恭しく頭を下げた。
「グロールフィンデル殿、良くぞお越しくださいました」
 その騎士は、片膝をついてキアダンに敬意を示した。
「キアダン殿、ゴンドリンのトゥアゴン王の使いで参りました」



「エレイニオン」
 キアダンの声は、波の音に似ている。耳に心地よい。
「エレイニオン、入るぞ」
 寝室のドアが開かれる。いつものように窓辺に座ったエレイニオンは、振り向きもしない。
テーブルには、スープと薬草茶が、手付かずのまま置かれている。それを見て、キアダンは小さくため息をつく。
「エレイニオン、こちらを向きなさい」
 頬杖をついたまま、気だるげにエレイニオンは振り向く。
「きみにお客様だよ」
 そう言って、キアダンは身を引いた。
「………」
 あ、と小さく驚きの声をあげ、エレイニオンは慌てて立ち上がる。
「グロールフィンデル殿」
「エレイニオン殿、お久しゅうございます」
 深々と頭を下げるグロールフィンデルに、エレイニオンは困惑し、助けを求めるようにキアダンを見る。
「グロールフィンデル殿はきみに話があるそうだ。わしは仕事があるので港に戻るよ」
 あからさまに困り果てたエレイニオンの姿に、キアダンは少しだけ失笑する。
「あの…私はどうしたら…?」
「フィンゴン王の子息らしく振舞いなさい」
「キアダン殿、先ほどの件、よろしくお願いいたします」
 グロールフィンデルはキアダンにそう言って目配せをする。
「承知した。すぐに取り掛かろう」
 キアダンも目配せを返し、部屋を出て行った。

 二人きりになると、エレイニオンは大きく息を吸い込み、
できるだけ表情を引き締めるようにして、グロールフィンデルに椅子を勧めた。自分は寝台の端に腰掛ける。
「それで、私にお話とは?」
「まずは、お悔やみを申し上げます」
 何の事だろうと、一瞬頭の中が真っ白になる。
 ああ、父のことを言っているのか。
 そうだ。父は、死んだのだ。
 立ち上がって頭を下げるグロールフィンデルに、お座りください、とエレイニオンは身振りした。
「グロールフィンデル殿は、父の死を、見ましたか?」
「いいえ。私はトゥアゴン王と共にフィンゴン王の部隊と引き離されてしまったので」
「知っている事でかまいません。教えてください」
 もちろん、そのために来たのだから。
 グロールフィンデルは静かな感情を抑えた声で、その戦いのことを話し始めた。

 グロールフィンデルが全てを話し終える頃には、もう日は翳っていた。
この家のある入り江は東の方角にあるので、太陽は丘の向こうに消えていく。
港から見る夕日は、きっと今日は真っ赤な血の色だろう。窓の外は、藍色の夜が忍び寄っていた。
 ふと、この入り江に家を建てたのは、血の色の夕日を見なくてすむように、なのかもしれない、
と、エレイニオンはぼんやりと考えた。
「大丈夫ですか?」
 空ろな瞳で窓の外を眺めるエレイニオンに、グロールフィンデルは心配げに声をかける。
「何が、ですか」
 自分の声が、空っぽの頭の中で空しく響く。
「エレイニオン殿」
 ふと、触れてくるものに我に返る。いつの間にか隣りに座っていたグロールフィンデルが、エレイニオンの手に触れている。
「すみません、グロールフィンデル殿、貴重なお話は、ちゃんと聞いております」
「話は終りました」
 終った、そうか、終ったのか。
「トゥアゴン王と、あなた方がご無事で何よりでした。トゥアゴン王に、よろしくお伝えください」
 言うべきセリフが感情のないまま口から滑り出る。
「エレイニオン殿、キアダン殿は今しばらく貴方には時間が必要だとおっしゃっておられましたが、
それ以上に貴方には必要なものがおありなのではありませんか」
「?」
 何の事かと、エレイニオンはグロールフィンデルの金色の瞳を見上げる。
「貴方の心は今、悲しみに溺れているのではありませんか。私にできることがあれば…」
「悲しみ?」
 その言葉の意味が、理解できない。
「ええ、悲しみです。フィンゴン王、貴方のお父上を亡くした悲しみです」
 そうだ。私は、父を亡くしたのだ。
「父を亡くす悲しみというのは、こういうものですか? 私には、わかりません。
これが、悲しみなのでしょうか。胸の中が空っぽで、そのくせ、ざわざわと騒いでいて、苛つくのです。
何かを考えようとしても、何も考えられず、何かをしようとしても何も手につかず、
自分が虚構の中にいるようで…これが、悲しみなのですか。
グロールフィンデル殿、貴方には父を亡くす悲しみがわかりますか?」
「残念ながら、エレイニオン殿、私には父を亡くす悲しみというのはわかりません。
私には、父も母もおりません」
 ああ、あなたは、最初に生まれたエルフのひとり、なのですね。エレイニオンは呟く。
「私の父と母は、このアルダそのものですから」
 何か特別なものを見るような目で、エレイニオンはグロールフィンデルを見つめる。
自分とは違う何か。こんなに弱くて脆い自分とは違う、強靭な何か。
「ですがエレイニオン殿、大切なものを失う悲しみは、私にもわかります。
愛する同胞を、たくさん失ってきましたから」
 エレイニオンは無言でグロールフィンデルを見つめている。
「エレイニオン様は、ご自分の悲しみに気付いていらっしゃらない」
「だから、どうしろと?」
「私には、エレイニオン殿の、父上を失った深い悲しみを理解することはできません。
ですが、せめて一時お慰めすることはできます」
「それは………」
 ふわり、と、唇が触れる。
「?」
「肉体の虚構を埋めるのです」
「どうやって…?」
 ゆっくりと寝台の上に倒れる。
 白くて長いグロールフィンデルの指が、エレイニオンの胸の上を滑っていく。
「目を閉じてください、エレイニオン殿」
 言われるがまま、目を閉じる。
 波の音が聞こえる。
 いや、自分の心臓の音かもしれない。
 エレイニオンは、夢の中に落ちていった。



(本当に?)
 押し殺した声で、その男は言った。
(ああ。エレイニオンは、キアダンに預ける事にした)
(まだ幼子だぞ?)
(だからだ。手元には置けない)
 あれは、あの夜のことだ。父を、あの男が尋ねてきた。父の、親友。あの男の事は好きだった。
憧れていた。だから、あの男が父の部屋で、二人きりで会っているというので、こっそりと会いに来たのだ。
柱の陰に隠れて、それを見ていた。寝台の上の、二人を。それは、不思議な光景だった。
胸がドキドキした。父が、祖父を戦いで亡くし、悲しんでいるのを知っていた。
父の親友は、父を慰めているのだとわかった。胸がドキドキする。
(エレイニオン!)
 隠れていたつもりだったのに、突然父に名を呼ばれ、飛び上がる。
(盗み見とは、褒められた事ではない)
(………ご…ごめんなさい…)
(こちらに来なさい)
 父も、父の親友も、一糸纏わぬ姿で寝台に横たわっている。
(フィンゴン、子供の前で…)
(マエズロス、エレイニオンはもう10だ。子供ではない)
(子供だよ。親の庇護が必要だ)
(そんなことを言ってる時代ではないのだ。今は)
 父は、一瞬口ごもり、決心したように再び口を開いた。
(マエズロス、この子を大人にしてやってくれないか)
(何を言っているんだ? 10の子供に?)
(私たちを覗き見するような子だぞ。興味もあるだろう。私の最後の手向けだ。私がしてやれる最後の)
 一呼吸置き、続ける。
(他のものには、頼めない)
(そうだが…)
(頼む)
 父の親友は、しばらく考え、エレイニオンを見つめ、ため息をついた。
(最後まではできないぞ)
 父は微笑んだが、その笑みは酷く悲しげなものだった。



「エレイニオン殿、痛くはありませんか」
 耳元の囁きに、空ろに天上を眺めたまま、首を横に振る。
「初めてでは、ありませんね?」
「いいえ……グロールフィンデル殿…こんなふうに…繋がるのは、初めてです。
私はまだ幼かったので………あ……」
 ピクリ、と身体を震わせ、息を飲む。
 あの夜、身体の触れ合いを教わった。それは特別な行為だ。温かくて心地いい。
ただあの時は、まだ幼すぎて、交わるまでには至らなかった。
「どなたに、教わったのですか」
「マエズロス殿…」
 ああ、と、納得したようにグロールフィンデルは頷く。フィンゴン王が、大切な息子を委ねるのだ。
よほど信用のある者だけた。
「マエズロス殿は、お優しかったですか」
「ええ、とても」
「あの方は…高潔な方です」
 血の誓約さえなければ。
「………エレイニオン殿、やめてもよろしいのですよ」
「いいえ、……続けてください……」
「よろしいのですか」
「私は………子供ではありません」
 そう言って、目を閉じる。
 そうだ、こんなふうに、あの夜、父は、彼と身体を重ねていたのだ。



 寝台の上で、エレイニオンはゆっくり呼吸を整えていた。
「大丈夫ですか?」
 すぐに服を着込んだグロールフィンデルが、エレイニオンを覗き込む。
「大丈夫です」
「痛みは、しばらく残るかもしれませんが」
「大丈夫です、グロールフィンデル殿」
 ゆっくりと両手で身体を持ち上げながら、力なく笑う。
「気持ちよかった」
 意外なエレイニオンの反応に、グロールフィンデルは眉を上げて驚きを示す。
「ありがとうございます、グロールフィンデル殿。もう大丈夫。いろいろ考えられるようになりましたし」
「お役に立ててよかった」
 寝台を降り、服を手にして少し考え、エレイニオンはそれを椅子の背に投げた。
「海で身体を洗ってきます」
 足を出してふらつく。グロールフィンデルはエレイニオンを抱きとめ、そのまま抱き上げて部屋を出て、浜辺に運んだ。
「歩けますか」
 そっと降ろすと、ありがとう、とエレイニオンが微笑む。そして、青く澄んだ海の中に入っていった。
 陽の光が降り注ぐ。まるでここだけは、戦など夢物語であるように。
 グロールフィンデルは、主トゥアゴンから、フィンゴンが幼子をキアダンに預けた事を聞いていた。
当初、その理由がグロールフィンデルには理解できなかった。
自分には子供などいないし、欲しもしないが、自分が見てきた中では、
それは愛すべき存在であり、手元に置くものであり、行動を、運命を共にするものであると理解していた。
フィンゴンは一度、幼い我が子を連れてゴンドリンを訪れた事があり、その時には、そんなありふれた父子関係のように思えた。
 フィンゴン王は、
 自分の息子を、戦場に連れて行きたくはなかったのだろう。
 たとえ戦渦に巻き込まれることは避けられないとしても。
 キアダンの戦いは守るためのもので、戦況が悪くなれば撤退もする。
 だがフィンゴン王は、あの戦いで撤退の意思はなかった。たとえ命を落としても。
 否、本当にそうだったろうか。
 フィンゴン王とて、生き残る道があるなら、撤退したかもしれない。
 フィンゴン王には、己で己に課した使命があったはずだ。
 フィンゴン王の死に、主トゥアゴンは哀しく呟いた。
 もう、だれもマエズロスを止められない、と。
「グロールフィンデル殿」
 青く澄んだ海に身を沈めながら、エレイニオンは声を上げた。
「大人になるとは、どういうことだと思いますか」
「………己の使命を理解し、守るべきもの、守りたいもの、愛するものを持つこと、ではないかと」
 ざぷん、と、一度頭まで潜り、波間から顔を出したエレイニオンの髪には、きらきらと光る星が瞬いていた。
「貴方は、愛するものがおありですか。守るべき王や民ではなく、個人として」
 大切なもの。愛しているもの。失いたくないもの。
「あります」
「それは………」
 その名を口に出そうとして、止める。なんでも口にしてしまうほど、分別のない子供ではない。
 静かな波間にゆったりと浮かび、青い空を眺める。
「私はまだ、父が理解できません。私は父を愛していたけど、父が私を愛してくれていたのか、確信がもてない」
「フィンゴン王は貴方を愛しておられました」
「マエズロスも、キアダンも、そう言う。でも、愛していると言われた記憶はないし、私は父の後姿しか覚えていない」
 父は、死出の戦に、私を連れて行ってはくれなかった。
(違う。フィンゴンは、死ぬつもりなどなかった。
彼には、守らなければならないものが、絶対に守らなければならないものがあった)
 グロールフィンデルは確信する。
 そして、自分が愛する者を想う。
 エレイニオンは、ゆっくりと海から上がってきた。
 足取りはしっかりしている。
 グロールフィンデルは、エレイニオンの肩に自分のローヴをかける。
それを引き寄せたエレイニオンは、軽く目を閉じ、想いを馳せた。
「貴方への、強い加護を感じます。これは、貴方の大切なひとの贈り物ですね」
 グロールフィンデルは、唇を吊り上げるだけで答えない。
 バラールで、フィンゴン王の子息を抱いたなどと言ったら、さぞ怒られるのであろうな。
「私もいつか、愛というものを見つけることができるでしょうか」
「できますよ」
「その時には、私を手放した父の愛情というものが、理解できるでしょうか」
「ええ。でも今は、キアダン殿の愛情を、思い出すべきです」
 遥か丘の向こうの港を見やり、エレイニオンは頷いた。
「グロールフィンデル殿、私は、キアダンを、本当の父のように思っても良いのでしょうか。
キアダンを慕う事は、父への信頼の裏切りにならないでしょうか」
「愛情の形はいろいろで、それはたくさんあるのです。
むしろ、貴方が誰も何も愛せなくなってしまう事を、貴方のお父上は悲しむでしょう」
 エレイニオンは目を伏せ、エクセリオンの加護の祈りに守られたローヴに口づけた。
「ありがとう。グロールフィンデル殿、あまり貴方を長く引き止めてはいけませんね。港に行きましょう」



 エレイニオンはグロールフィンデルと連れ立って港に下りていった。
 キアダンは忙しく働いていたが、二人を見るとすぐに飛んできた。
「エレイニオン、もういいのかい?」
 目を細めて切なげに笑い、エレイニオンは頷く。
「グロールフィンデル殿、感謝いたします」
「いいえ、キアダン殿。エレイニオン殿が心配で仕事が手につかないと私も困りますから」
 グロールフィンデルの言葉に、キアダンは噴出して笑う。
「グロールフィンデル殿、案外姑息なんですね」 
 エレイニオンも苦笑する。
「私は、私が守りたいものの為になら、卑怯にも姑息にもなります」
 エレイニオンの苦笑が本気の笑いとなり、笑いすぎて零した涙を拭きながら、
「私も見習うようにします」
 と言った。
「では、グロールフィンデル殿のために、私も手伝います。キアダン、何かすることはある?」
「では、シリオンの警備に行ってもらいたい。あそこを落とされたら難儀だ」
「私は一度ゴンドリンに戻ります」
 グロールフィンデルの言葉に、もう? と首を傾げる。
「せめて一晩くらい休んでいかれては?」
「もう一晩休みましたし、ゆっくりできる戦況ではないのです。国が心配ですし、今すぐ帰りたい」
 それに、とエレイニオンの耳元で囁く。
(私を待っている人がいる。私も帰って彼と愛し合いたい)
 くすり、とエレイニオンは笑った。
「では致し方ありません。シリオンまで私がお送りいたします」
「エレイニオン殿はもう少し休まれた方がよろしいかと」
「もう充分休みました。シリオンの現状を視察してきます。キアダン、行って来る」
 気をつけてな、とキアダンは頷いた。

 船の上で、エレイニオンはゴンドリンの詳しい現況を聞いた。
「トゥアゴン王によろしくお伝えを。その希望という予言、信じましょう」
 そう言うエレイニオンの表情は、大人びていた。

 別れ際、お互い胸に手を当て、敬意を表す。
「エレイニオン殿、くれぐれもお命を大切に」
「もちろん、父に守られた命ですから。それに」
 ニッと笑うエレイニオンは、それまでの重たい外套を脱ぎ捨てた清々しさがあった。
「私はまだ、愛をみつけていませんから」
 グロールフィンデルも笑って見せた。
 


 それから数十年、
 ゴンドリンは陥落し、エレイニオンはトゥアゴン王と、
守りの要であったグロールフィンデルとエクセリオンの死の知らせを受ける。 
          



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グロールフィンデルはトゥアゴン王の使者としてキアダンに船造りを頼みに来たのでした。